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media exprimoとは何か

そのはじまりから折り返し地点まで
以下は、2009 年8月にチーム代表の須永剛司(S)と、グループ長の一人、水越伸(M)がおこなった対談の抄録である。先に掲載した「メディア・エクスプリモ宣言」と併せて読んでいただくと、このプロジェクトの概要を理解していただけると思う。


「エクスプリモ」とは

M:CREST に選考されたあと、須永さんはこの5 年半にわたるプロジェクトにニックネームをつけられましたね。
S:「Media Exprimo(メディア・エクスプリモ)」ね。メディアは、コミュニケーションを「なかだち(媒)」するモノやコトですね。「媒」のはたらきそのものはメディエーションという。

で、「エクスプリモ」というのは多摩美の小早川真衣子さんが持っていた美学事典で見つけました。ラテン語で「表現する」という意味。絞りだす、ということと同じ語源で、エスプレッソとも親戚関係のようです。美大の感覚でいうと、表現っていうのは、なにかギューって絞り出すものなんですよね。メディアを用いて一般の人々が何か表現物を絞りだす、ひねりだす、描きだす、という感じがいいんじゃないかと思ったわけです。
M:初めて聞いたとき、響きがよくて、あぁ、これだなと思ったな。須永さんと僕たちは1992 年前後に知り合い、その後2001年からは市民のメディア・リテラシー、メディア表現をめぐる実践的な研究プロジェクト「MELL Project(メル・プロジェクト、Media Expression, Learning and Literacy Project:メディア表現、学びとリテラシー・プロジェクト)」を一緒に展開してきましたね。僕からすると、メディア・エクスプリモはメル・プロジェクトの延長上に生まれた共同研究だと思えます。
S:そのとおりですね。水越さんらと僕たちが、広い意味でのコミュニケーションのための場のデザイン、人の創造や表現行為の可視化といった活動に取り組んできたことがメディア・エクスプリモに結びついたといってもよい。
ただし僕自身はもう少しデザイン論の深いところでの積年の問題意識もありました。僕自身はこのプロジェクトで、情報デザインの未来のために、2つの「チャレンジ」をしていると考えています。


情報デザイン、2つのチャレンジ

S:第一に、一般の人々、市民のための情報デザインが必要だということ。僕はもともとプロダクト・デザインの出身ですが、プロダクト・デザインには、英国のアーツ・アンド・クラフツ運動や日本の民芸運動など、一般の人々が日常生活で使うモノのデザインに取り組んできた系譜があります。

ところが20世紀半ば以降、それは米国流の大量生産・大量消費品の「がわ」をつくる営みへと、つまり商業主義的・工業主義的なデザインへと変転していきました。コミュニケーションに関わる情報デザインも、その延長上にある。情報機器のディスプレイ画面、メディア企業のウェブサイト、ケータイ向けの娯楽コンテンツなど、すべてビジネスライクでコマーシャルなデザイ ンへ傾斜しています。
M:企業が消費者に向けてモノやサービスを売るための情報デ ザインだ、と。
S:ええ。そういうデザインもあっていいと思います。ただし情報デザインがすべてそうである必要はない。僕は企業や専門家のためではない、一般の人々、やや硬いいい方だけれど市民が表現したり、表現をとおして対話するためのモノやコトのデザインをしてみたいんです。
M:僕たちのグループの鳥海希世子さんがいう「デジタル民芸」ですね。
S:そう、デジタル時代の民衆のための芸術の道具やプラットフォームを生みだしたい。さらにいえば、道具やプラットフォームそのものも市民がいじったり改造できる、市民参加型のデザインを許容するものにしたいんです。僕たちがつくったモノ やサービスを、「ユーザーは中身を知らなくてもいいのでただ使ってください」ではなく、「基本ユニットは提供するから地域や組織に応じて応用してください」というふうにできればと。

第二に、デザイナーが生みだしたアイディアや研究を、企業に持っていかれるのではなく、自分たちで実際のモノやサービスとして社会に送りだしていきたい。もちろん市民参加型のデザインを施したモノやサービスを。
M:でも美大のデザインだと、たとえばオープンキャンパスとか展示会などを見ても、随分いろんなアウトプットが世の中に出ているような気がします。
S:いえ、それは構想レベル、研究レベルがほとんどです。情報デザインの結果を一般の人々に使ってもらえるように最終的なフィニッシュワークまで施して世に出すということはほとんど出来ていない。僕は、大学でデザインに取り組む者たちがその部分まで自律的にやるべき時代だと思うんです。市民のメディア表現をめぐってはなおさらだ、と。

そうしないと世の中、コマーシャルでビジネスライクな情報デザインばかりになってしまいかねない。それでは21世紀の情報社会は、いつまで経ってもパブリックな場にはならないと思うのです。デザイナーがやるべきこと、担うべき役割があると強く思います。


文化プログラム/技術システム、微視的次元/巨視的次元

M:須永さんの直球勝負の心意気は、とても大切なものだと思います。僕たちもそれを共有したいと思って、メディア・エクスプリモに参加したわけです。ところで、どうしてこの4グループを選んだんですか。
S:本当をいえばもっとグループはあってよかったのかもしれないですが、採択のプロセスやら、予算の関係やらいろいろ現実的なこともありました。一方で、あまりたくさんの人がただ集まってもうまくいかないことはわかっていた。そこでメディア・エクスプリモを進めるための2つの軸を考え、それに沿って典型的ともいえる仲間に集まってもらったんです。

1つめの軸は、このプロジェクトではたんに個別の技術開発をするだけではダメで、人々が技術を用いて日常生活の中で持続的に表現活動を楽しみ、さらに他の人々に広がっていくための文化プログラムが必要だということ。このあたりは水越さんが助言してくれましたよね。
M:市民のメディア表現のためには「文化プログラム」と「技術システム」の2 つの要素を大切にし、それらをアマルガム、つまり複合体にしていくことが、技術の可能性をわきまえつつ技術だけに頼らない姿勢として必要だと思うんです。

たとえば後述する「ケータイ・トレール」は、ケータイを用いた人々のメッセージのしりとり遊びのような活動です。これは遊びのプログラムや実践のノウハウからなる文化プログラムと、メッセージを集積し、解析し、脱構築し、可視化していく創造活動支援の技術システムが合体して出来ている。
S:もう1 つの軸ですが、人々の表現や創造をうながすために、認知や行為のレベル、すなわち微視的な次元でのデザインと、地域や社会のレベル、すなわち巨視的な次元でのデザインが必要で、それらがやはり総合されるべきだと考えました。

これらの2 軸で考えてみると、まずは情報デザインの須永グループとメディア論の水越グループというのが対置してあり、それぞれを支えるかたちで西村グループ、堀グループを位置づけることができます。しかしまあ、そうした理屈は後付けのところも多い。要は一緒に5 年半、チームを組める人たちかどうかという見極めというか、念力が働いたというか…。文系、美系の素っ頓狂なアイディアを、理工系にしっかりシステム化してもらう企みともいえます(笑)。


批判的で、実践的な方法論

M:で、この4グループを束ねるための学際的な方法論として、ワークショップを導入しました。これは特に意識したわけじゃなかったですよね。
S:水越さんと僕らが何かやるといえば、メル・プロジェクトのころからワークショップが基本だったから。さらにいえば、ワークショップはもともと工房を意味するわけですが、美大ではその工房で身体を使ってモノをつくるということをやってきてるので、僕たちには当たり前のことだった。
M:最近はワークショップがはやっていて、「楽しくやって終わり」となってしまいがちな良くも悪くもゆるいモノが多い。僕たちはそれらを意識的に方法論として検討してきました。そこで批判的で、しかし実践的な研究活動という意味で、「批判的メディア実践(Critical Media Practice)」という看板を掲げ、その中身を充実させてきた。
S:僕たちは「アクティビティに根ざしたデザイニング」というこ とをずっといってきてるから、それと合致します。
M:ええ。ただアクティビティ、すなわち「行為」という微視的な次元だけではなく、地域のなかでメディアを活用して物語を編みあげるような、社会的、巨視的な次元までを含め込んで考えたいと思って「実践」という言葉を用いたわけです。

ここでその詳細を説明する紙面の余裕はありませんが、端的にいえば先ほど須永さんがいった、一般の人々が毎日当たり前のように使っているビデオカメラ、ネット、ケータイのようなデジタル機器をいつもとはちがうかたちで用い、とらえなおして、自分たちの個人や共同体の物語表現をしていくためのワークショップやシンポジウムといったお祭り的な非日常的な場を、文化プログラムと技術システムの複合体として、文理越境的につくってきた。

そしてこの非日常的な場は、一般の人々の表現の場であると同時に、原島博さん流にいえば文系、理系、美系の研究者が、いわば「反省的な専門家」として協働していくという意味で、学問的にも非日常的な場となったわけです。
S:僕たちがつくったワークショップやシンポジウムには、参加してくれた一般の人々が応用加工して、やがて自分たちで地域や共同体のなかで自律的に主催・運営していくことが出来るような、市民参加型のデザインを施そうと考えてきたわけですよね。つまり非日常的な場を人々の日常生活にタネとして埋め込んでもらい、持続的に展開してもらおうと。
M:その点では、とても特徴のあるワークショップを展開してきたと思います。近年はちょっとしたワークショップ・ブームで、ある技術システムを触ってよろこんでもらって終わりとか、子どもたちに学習してもらうための活動的な授業のようなモノも多々ありますが、僕たちは一般の人々の創造的学習と、研究者の批判的分析を結びつけ、循環させる装置として ワークショップをとらえてきていた。それを一般的に批判的メディア実践と呼んできたわけです。

日常生活では起こり得ない現象を起こし、眼に見えない物質を顕在化させる加速器のようなものですね。僕たちは日常生活で当たり前のようにメディアと付き合ってきている。 その状況を批判的メディア実践という装置にかけることで、日頃は意識することがないメディアと人間のかかわり方の根本を見出したり、いまの現実にはないメディア表現の可能性を構想したりしてきたといえます。そしてその成果を市民にも還元する回路も組み込もうとしてきました。


成り立った文・理・美の協働

S:2006年10月に山中湖で合宿をやりましたね。
M:メディア・エクスプリモはあの合宿からスタートした。だい ぶメンバーは入れ替わりましたけれどね。
S:あれから3 年が経ち、残り2 年半という中間地点に来たわ けだけど、僕たちはなにが出来て、なにが出来なかったといえるんだろうか。
M:まず出来たこととして、いくつか挙げられると思うんですよね。
第一に、文理越境というか、文系・理系・美系の協働研究そのものが、かなりうまくいっているということは特記しておいていいと思うんです。この種の研究ではふつう、研究費を 分配したあとは個別グループに分かれて研究を進め、それらをセミナーやシンポジウムで寄り合わせてみせるということが多い。

しかし僕たちは、山あり谷あり、喜怒哀楽ありだったけれど、ワークショップをはじめとする実践を扇の要として、ずっと継続して協働してきた。少なくとも須永&西村グループ、堀&水越グループのタッグチームでの研究開発というのは軌道に乗っているといってよい。これはこの領域の研究を進める上でとても重要なことなのではないかと思います。
S:うん、十分じゃないという気持ちもあるけどね。
M:もちろんです。いいことばかりじゃなかった。それでも地域のミュージアムや放送局、教室などに来てくれる一般の人々や子どもたちにとって意味のあることをやろうという点で、僕たちは同じ対象に向かって協働し、その過程でお互いの立場のちがいを理解したり、協力のしかたを見出したり、さらに相手のいいたいことを人前で代弁まで出来るように なったりしてきている。これは大きいですよ。
S:僕たちが美術の専門家向けではなく、一般の人々のための文化プログラムと技術システムをデザインしようとしている以上、生活全体の中に位置づいてそれが使われることが重要になる。そのためには文系か理系か美系かとどれかに片寄ることなく、越境的に研究することはどうしても必要なんだよね。たしかにそれはクリアした感じがします。


キーワードは「日常性」と「協働性」

M:第二にいえることは、市民のメディア表現を生成するための文化プログラムと技術システムづくりにおおむね成功したということです。もちろんすべてを網羅したわけではないし、人々のおかれた状況に応じて自在に変容するダイナミズムを持ったメディア表現を体系的にとらえることなど出来ないでしょう。しかし、ある種のメディア表現を生みだしやすくしたり、おもしろく展開するための仕組みづくりは出来たといえます。

ここでのキーワードの1つは、「日常性」です。僕たちは、一般の人々が高尚な芸術様式をまねしたりすることからではなく、日常生活で経験していることがらを写真や絵、言葉にしてもらうことから出発した。同時に、むずかしい秘術ではなく、連歌、しりとり、あいうえお作文、紙芝居などといった誰もがよく知っている伝統芸能・限界芸術の様式を「流用(appropriate)」しました。

もう1つのキーワードは「協働性」。日常生活で経験していることがらを絵や言葉のかたちで顕在化させ、それらを集合表現的に練り上げていく。一人一人が絵や音楽の先生からレッスンを受けるようなかたちではなく、僕たちがファシリテーターとなりつつ、ワークショップを展開して、人々が顕在化させた日常生活の断片を片手に語り合い、協力し合って、物語や作品を生みだしていった。欧米のストーリーテリングに顕著な個人主義ではなく、コミュナルななかから物語を編みあげるプログラムをつくったわけです。この意義は、国際的にももっと強調していっていいのではないでしょうか。
S:そういわれると、そんな気がするな(笑)。たしかに、最初のころに見よう見まねでやった「DJ コラージュ」も、「Zuzie」も「メディア・コンテ」も、僕たちがやってきた活動ではどれも日常的な経験を絵や写真にして、それらを協働でつくるアルバムのように構成してもらった。「あいうえお画文」はあいうえお作文、メディア・コンテは紙芝居、ケータイ・トレールはしりとり、「学環えんがわワークショップ」は連歌。どのときにも参加者は経験を共有し、理解し合い、そのうえで新たな作品へとバージョンアップしていった。

いずれも技術系の人が前面に出るのではなく、デザインやメディア論が前面に出て日常生活を捕まえ、アイディアをひねり、それをシステムが支え維持する、というメディア・エクスプリモならではのフォーメーションがあったからこそ出来たわけですね。
M:あれこれバラバラにやってきたように見えても、エクスプリモなりの学問論みたいなものを背後にもった上で日常性・協働性を尊重する、という姿勢が一貫していたといえるでしょう。すでに市民メディアなどで活動している人たちというより、そういうことに関心がない大多数の一般の人々に関心を持ってもらう、やる気になってもらう、そのための仕組みを作れたんだと思います。

ちなみにそこでの参加者の関係性は、メディア・エクスプリモの4グループのメンバーの相互の関係性と相似形にあるんだと思う。そこも味噌ですね。
S:それから僕たちがやってきたことは、いろんなかたちで応用可能というか、可変性も実現できた。たとえばZusieは紙と筆記具でも出来るし、画面上でも出来る。ケータイ・トレールはアート・ワークショップからラジオ番組の支援システムまで可変性があった。このあたりは、北欧あたりでいわれている「市民参加型システムのデザイン」という営みの方向を向いていると思います。


持続的ネットワーク化のために

M:ただ、僕たちはまだ、自分たちが作り上げたプログラムをあちこちで持続的に展開するということが十分には出来ていない。あいうえお画文は3回、ケータイ・トレールは大小合わせれば7回、メディア・コンテは3回、Zusie01も4回やっています。ワークショップは1 回実験的にやったらそれで終わり、というのがふつうだからそれよりははるかに継続性があるけれど、残念ながらそれは研究の継続性であり、同じ地域や共同体で、参加者が自律的に継続してやるというところまでは至っていない。これは今後の課題ですね。
S:正直リーダーとしては、これだけ継続的にやっていれば十分だという気がしないでもないんですがね。ただたしかに活動自体は継続的だけれど、同じ地域や共同体の自律的な持続にはいたってないですね。
M:まずは、CREST という範疇で出来ることとできないことがあるかと思います。本当にしっかり持続的にやろうとしたら、NPOでもつくって地域や共同体とがっぷり向き合っていくとか、会社を作ってパッケージ化したサービスを供給してく必要がある。水越グループの各地に散っているメディア論のメンバーたちは、特にそのあたりをしっかりやっていくでしょうが。いずれにしてもCREST はある種のパイロット研究だということ、これはしようがないことだと思います。

ただ、そこまで突き詰めなくても、ある実践を同じ場所でもう一度やるためのムードづくりやロジスティックスづくりはできると思う。それから、各地に散っているメディア表現の「タネ」のような人物やコミュニティを結びつけ、はげましたり、祝祭的なムードを作っていくということも。
S:水越さんがいう「メディア・ビオトープ」をネットワークしていくということですね。
M:ええ。堀グループのエンジンと、西村グループのインタフェースを組み込んだ技術システム。それを全国に散らばっている施設や機関、グループで共有してもらい、オンラインに閉じるのではなく、オフラインのワークショップでも活用してもらいつつ、一種のダイナミックな市民参加型のアーカイブを作っていくということ。まだまだ青写真の域を出ないし、いろいろむずかしいこともあるだろうけど、誰もやっていないことだと思う。
S:さしあたりはメル・プラッツと協働し、このシステムを具現化したいですね。つまり中間地点を通過したメディア・エクスプリモは、個別の市民のメディア表現のためのプログラム作りを継続展開し、いずれそれをキット化していくことを目指すと同時に、それらの活動をメタ・レベルでネットワークしていく仕組みづくりに、新たに取り組むことになります。

(須永剛司、水越伸)


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